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Charles-Valentin Alkan
(1813年11月30日 - 1888年3月29日)

シャルル=ヴァランタン・アルカン(Charles-Valentin Alkan, 1813-1888)は、フランスのピアニスト・作曲家。パリ出身。本名はモランジュ(Charles-Valentin Morhange)という。アルカンという姓は、父(Alkan Morhange)の名から取ったもので、兄弟たち(彼らもまた音楽家として活躍した)も皆アルカン姓を名乗っている。

アルカンは、僅か6歳でパリ音楽院に入学し、ピアノをジメルマン、和声法をドゥルランに師事した。選抜試験では、ソルフェージュで1821年に一等賞を、ピアノで1822年に次席賞、1823年に二等賞、1824年に一等賞を、和声法・伴奏法で1827年に一等賞を、オルガンで1834年に一等賞を獲得している。1832年にはローマ賞に応募し、選外佳作に選ばれている。1829年から1836年にかけては、音楽院でソルフェージュの非常勤講師(répétiteur)を務めた。

アルカンは、1826年にピアニストとしてのデビューを果たし(ちなみに、7歳の頃には、ヴァイオリニストとして舞台に立っていた)、1828年には《シュタイベルトの主題による変奏曲 Op.1》を出版して作曲家としてのキャリアも歩み始めた。若くしてヴィルトゥオーゾ・ピアニストとして大きな成功を収めた彼は、ショパンやリスト、ヒラー等の音楽家とも親交を結んでいる。

1838年から1844年までの間、アルカンは公の場に姿を現さなくなるが、これには、彼がとある既婚女性との間に子供を儲けたというスキャンダルが関係しているといわれている。なお、この私生児はエリ=ミリアム・ドラボルドといい、アルカンの教えを受け、ピアニスト・作曲家として活躍した。

1848年、アルカンに転機が訪れた。旧師ジメルマンがパリ音楽院のピアノ科教授のポストを退くこととなり、アルカンがその後任候補の一人に挙がったのである。しかし、その座は最終的にマルモンテルが手にすることとなり、アルカンは深い失望感を味わうこととなった。

それ以降、アルカンは引き籠りがちな生活を送るようになった。1853年に2回の「古典的・回顧的音楽」の演奏会を行ったのを除き、長い間、彼はほとんど公の場で演奏活動を行わなかった。その沈黙が破られるのは、1873年のことであった。彼は、「古典音楽の6つの小演奏会 Six Petis Concerts de Musique Classique」という年6回の演奏会をこの年から1880年まで行っている。

1888年にアルカンは世を去った。死因については謎に包まれており、ユダヤ教の経典を取ろうとして本棚の下敷きになったとも伝えられている。

作品は、ピアノ曲が中心で、その多くは演奏が非常に困難であることで知られている。また、独創的、前衛的な作風も注目されている。代表作としては、《鉄道, 練習曲 Op.27》、《全ての長調による12の練習曲 Op.35》、《全ての短調による12の練習曲 Op.39》、《素描集, 48のモチーフ Op.63》等が挙げられる。

作曲家名の別表記:Alkan aîné
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