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Carl Czerny
(1791年2月21日 - 1857年7月15日)

カール・チェルニー(Carl Czerny, 1791-1857)は、オーストリアのピアニスト・作曲家。ウィーン出身。オーボエ奏者及びオルガニスト、ピアニスト、歌手であった父ヴェンツェル(Wenzel Czerny, 1750-1832)から早期教育を受け、10歳の頃には主要作曲家のあらゆる作品を弾きこなすことが出来るようになっていたといわれる。その頃に、ヴァイオリニストのクルムフォルツ(Wenzel Krumpholz, 1750-1817)の紹介でベートーヴェンに出会った。モーツァルトの《ピアノ協奏曲第25番》やベートーヴェンの《悲愴ソナタ》、《アデライーデ》を演奏して才能を認められたチェルニーは、彼に弟子入りすることとなった。

1800年、チェルニーは、ウィーンでモーツァルトの《ピアノ協奏曲第24番》を演奏し、ピアニストとしてのデビューを飾った。彼は、ベートーヴェンのあらゆる作品を暗譜演奏できたといわれ、1812年に《「皇帝」協奏曲》のウィーン初演で独奏者を務めたということは有名である。しかし、彼が力を注いだのは、華々しい演奏家としての活動よりも、教育者や作曲家としての活動であった。

彼がピアノを教え始めたのは、弱冠15歳の時であった。彼は、1816年から、一日に11、12時間もをレッスンに費やし、残った時間を使って作曲等を行ったという。この激務の日々をピアノ教師としての活動を辞める1836年まで送った。彼の薫陶を受けた生徒には、フランツ・リストを筆頭に、タールベルク、クラク、デーラーL.v.マイヤー、L.ラコンブ、A.ジャエル、レシェティツキ、ベルヴィル=ウーリー夫人等がいる。

チェルニーの作曲家としてのデビューは、1805年に出版されたピアノとヴァイオリンのための《クルムフォルツの主題による協奏的変奏曲 Op.1》においてであった。しかし、次の作品《華麗なるロンド Op.2》が出版されるのは、1818年まで待つこととなる。それ以来、チェルニーは、毎日の長時間に及ぶレッスンに加え、出版社からの需要に応え作曲の筆を執ることにも忙殺されるようになった。

チェルニーは、作品番号にして861にも及ぶ膨大な量の作品に加え、作品番号なしの編曲、未出版作品を残した。そのジャンルは、ピアノ曲のみならず、交響曲、協奏曲、室内楽曲、宗教音楽など多岐に及んでいる。ピアノ曲に関しても、愛好家向けの平易な作品からヴィルトゥオーゾ向けの演奏会用の作品まで、流行旋律による幻想曲や変奏曲からソナタやフーガのような古典様式による作品までと多種多様である。また、彼は、J.S.バッハやD.スカルラッティの作品の校訂も手掛けている。しかし、今日では、《30番(Op.849)》、《40番(Op.299)》、《50番(Op.740)》等と呼ばれているピアノのための練習曲集が専ら有名である。

チェルニーは、1836年にライプツィヒ、1837年にパリとロンドン、1846年にロンバルディアへ旅行したのを除き、生涯のほとんどをウィーンで送っている。1850年代になると健康が悪化し始め、1857年に痛風により世を去った。彼は膨大な遺産を残したが、生涯独身で親族もいなかったため、遺言状によりその大部分が慈善事業や芸術団体に寄贈されることとなった。

作曲家名の別表記: Charles Czerny、Carl Czernÿ
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