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Adolf Henselt
(1814年5月9日 - 1889年10月10日)

アドルフ・ヘンゼルト(Adolf Henselt, 1814-1889)は、ドイツのピアニスト・作曲家。シュヴァーバッハ(Schwabach)出身。1817年にミュンヘンへ移住し、その頃から音楽の手ほどきを受け始める。最初はヴァイオリンを教わったが、やがてピアノを習うようになり、1826年からは卓越したアマチュア・ピアニストであるフォン・フラット夫人(Geheimratin von Fladt)に就いて学び始めた。1831年には、バイエルン王ルートヴィヒ1世から奨学金を支給され、その翌年にヴァイマールで宮廷楽長を務めていたフンメルの下で約半年間指導を受けている。その後、ヘンゼルトは、ミュンヘンで演奏会(1832年11月29日)を開いて大きな成功を収めるが、更なる向上を目指して、ウィーンで対位法の大家ゼヒターの下で2年間音楽理論を学びつつ、独自に演奏技術を磨いていった。

ヘンゼルトは、広い音程の和音を掴むことが出来る柔軟な手(左手でド・ミ・ソ・ド・ファ、右手でシ・ミ・ラ・ド・ミを同時に押さえられた)を活かしたレガートかつ音響豊かな演奏を得意としていたといわれる。これは日々の過酷な訓練によって得られた賜物であるが、1836年には、このような練習が原因で身体を故障し、療養のために温泉地カールスバートに赴くこととなった。同年には、ヴァイマールを再訪し数ヶ月滞在するが、その間に、旧師フンメルに面会し、また、後の妻となるロザリー・フォーゲル(Rosalie Vogel)にも出会っている。彼女とは翌年にバート・ザルツブルン(Bad Salzbrunn、現ポーランド領Szczawno-Zdrój)で結婚している。

1838年、ヘンゼルトはサンクトペテルブルクに定住した。そこでは、宮廷ピアニストに任命されたのに加え、法学校でのピアノ教師の職も与えられ1848年までそれを務めている。その後も、ヘンゼルトは、1862年に開設されたサンクトペテルブルク音楽院で教鞭を執るなど様々な音楽教育機関に携わり、また、他の作曲家の作品の校訂も数多く行った。このような彼の活動は、ロシア・ピアノ楽派の発展に計り知れない寄与をもたらしている。

ヘンゼルトは、内気で神経質な性格のため、大勢の前で演奏をすることを苦手としていたといわれる。例えば、ピアノ協奏曲を演奏する際は、ピアノ独奏部が始まる直前まで舞台袖に隠れていたという逸話も伝えられている。しかし、1850年代初頭には、舞台負けを克服したのか、フランス、ドイツ、イギリスへの演奏旅行を行っている。

作曲家としては、《12の演奏会用性格的練習曲 Op.2》、《12のサロン用練習曲 Op.5》をはじめとするピアノ独奏曲の他、ピアノ協奏曲(Op.16)やピアノ三重奏曲(Op.24)などを残している。特に、Op.2の第6曲〈もし、私が鳥ならば、君のもとへ飛んで行くのに!〉は、かつて多くのピアニストに愛奏された作品である。

作曲家名の別表記Adolf von Henselt、Adolph Henselt、Adolphe Henselt
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