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Ferdinand Hiller
(1811年10月24日 - 1885年5月11日)

フェルディナント・ヒラー(Ferdinand Hiller, 1811-1885)は、ドイツのピアニスト・作曲家・指揮者。フランクフルト・アム・マインの裕福なユダヤ人家庭に生まれた彼は、ホフマン(Hofmann)にヴァイオリン、アロイス・シュミットにピアノ、フォルヴァイラー(Vollweiler)に和声法・対位法を師事した。10歳の頃には、モーツァルトの協奏曲を聴衆の前で披露している。1825年には、ヴァイマールでフンメルの弟子となり、更なる研鑽を積んでいった。1827年には、フンメルとともにウィーンへと向かうが、その際、ベートーヴェンの死の床にも立ち会っている。

1828年から約7年の間、ヒラーは、パリで生活した。初めは、ショロン(Alexandre-Ètienne Choron, 1771-1834)の王立古典宗教音楽学校(Institution royale de musique classique et religieuse)で教員を務めるが、やがて、ピアニストや作曲家として独立した音楽活動を行うようになった。社交的な性格だったヒラーは、パリで、ショパンやリスト、ロッシーニ、マイヤーベーア、ケルビーニ等といった楽壇の多数の著名人たちと親交を結んでいる。「お友達ならヒラー、夫ならショパン、愛人ならリスト」という当時の言葉は、社交界におけるヒラーの存在の大きさを物語っていると言えるだろう。

1836年、ヒラーは、フランクフルトに帰郷し、病躯のシェルブレ(Johann Nepomuk Schelble, 1789-1837)の代理としてチェチーリア協会(Cäcilienverein)の指揮者を務めた。その後、彼はミラノを訪れ、歌劇《ロミルダ Romilda》を書き上げ、ロッシーニの支援を得て1839年にスカラ座で上演するが、不成功に終わっている。その翌年には、メンデルスゾーンの助力で自作オラトリオ《エルサレムの崩壊 Die Zerstörung Jerusalems Op.24》をライプツィヒのゲヴァントハウスで上演したが、こちらの作品は好評を博し、後に、フランクフルト、ベルリン、ドレスデン、ウィーン、アムステルダムなどの諸都市でも上演されることとなった。1841年には、再びイタリアに赴き、ローマのバイーニ(Giuseppe Baini, 1775-1844)の下で、イタリアの古典教会音楽の研究に勤しんでいる。

1843年から翌年まで、ヒラーは、ライプツィヒのゲヴァントハウスで指揮者を務めた。その後、ドレスデンへ行き、そこで《クリスマス・イヴの夢 Traum in der Christnacht》(1845)と《コンラディン Conradin》(1847)の2作の歌劇を上演したが、これらもまた不成功に終わっている。なお、ヒラーは、この頃にシューマンと親交を結んでいる。

1847年、ヒラーは、デュッセルドルフの楽長に就任し、1850年には、ケルンで同様の地位に就いた。同年には、ケルン音楽院を創設し、その初代院長を務めた。その傍らにも、ヒラーは、パリのイタリア劇場(1852-53)やギュルツェニヒ管弦楽団の指揮を執ったり、ライン音楽祭の監督を務めるなど精力的な活動を行っている。1884年には、病気のため音楽活動から引退し、その翌年に73歳で生涯を閉じた。

ヒラーは、200以上もの作品を残したが、そのジャンルは、歌劇、オラトリオ、交響曲、ピアノ協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲など多岐に及んでいる。また、『音楽と聴衆 Das Musik und das Publikum』(1864)、『フェリクス・メンデルスゾーン=バルトルディ:手紙と追憶 Felix Mendelssohn Bartholdy: Briefe und Erinnerungen』(1874)、『Musikalisches und Persönliches』(1876)等といった音楽関連の著作も残している。

作曲家名の別表記: Ferdinand von Hiller
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