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Léopold de Meyer
(1816年12月20日 - 1883年3月6日)

レオポルド・ド・マイヤー(Léopold de Meyer, 1816-1883)は、オーストリア出身のピアニスト・作曲家。ウィーン近郊のバーデン(Baden)生まれた彼は、初めは法律家になるための教育を受けたが、17歳の時に訪れた父の死を機に、幼い頃から親しみ才能を開花させていた音楽の道へ進む決心をし、ウィーン音楽院教授フランソワ・シューベルトチェルニー、フィッシュホフに師事した。

1835年、マイヤーは東欧方面への演奏旅行を開始した。ブカレスト、ヤーシ、オデッサ、サンクトペテルブルク、モスクワを訪れた後、1843年までの間、ロシア帝国の様々な都市で巡演している。その後、ワラキアを経てコンスタンティノープルへ赴き、オーストリアに帰国した。それからも身を落ち着けることはなく、フランクフルト、ブリュッセル、パリ、ロンドン等を訪れ、1845年から1847年にかけてはアメリカで演奏活動を行っている。

マイヤーは、比類なく力強い演奏で聴衆を驚かせ、その風貌も相俟って「ライオン・ピアニスト」と渾名されていた。演奏中に大袈裟な身振りや奇怪な所作を取ることもあったと伝えられており、誇張はあるかもしれないが、親指だけで演奏したり、握りこぶしや肘を使って打鍵することもあったといわれている。

マイヤーは、作品番号にして200を越えるピアノ曲を残したが、その中でも《モロッコ行進曲 Op.22》は大きな成功を収めた。ベルリオーズは、この曲と《イスリーの凱旋行進曲 Op.30》を管弦楽用に編曲している。

  1. 有名なフランツ・シューベルトとは別人
作曲家名の別表記: Leopold von Meyer、Leopold Edler von Meyer
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