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Sigismond Thalberg
(1812年1月8日 - 1871年4月27日)

ジギスモント・タールベルク(Sigismond Thalberg, 1812-1871)は、スイス出身のピアニスト・作曲家。ジュネーヴ近郊、パキ(Pâquis)に生まれる。

出生証明書によると、彼の両親は、Joseph ThalbergとFortunée Steinという人物であるとされているが、実際は、モーリツ・ディートリヒシュタイン伯爵(Count Moritz Dietrichstein)とヴェツラー男爵夫人(Baroness von Wetzler)という貴族の男女の間に儲けられた私生児であったといわれる。

タールベルクは、10歳の時、外交官になるための教育を受けにウィーンへ赴き、そこで、ファゴット奏者のミッターク(August Mittag, 1795-1867)から音楽の手ほどきを受けた。その後、さらに、ゼヒターに音楽理論、フンメルにピアノを師事し、また、1826年にロンドンへ行った際には、モシェレスの指導も受けている。

14歳の頃には、サロン・ピアニストとしてデビューを飾り、その2年後には、最初の3作品(Op.1〜Op.3)が出版された。そして、1830年には、ドイツやイギリスへの演奏旅行が開始された。1834年には、ウィーンで宮廷ピアニストに任命され、その翌年には、パリでのデビューを果たしている。パリでは、カルクブレンナーやピクシスの指導も受けている。

タールベルクは、パリの聴衆を熱狂の渦に巻き込み、かのリストと人気を二分するまでとなった。両者の優劣を巡って、タールベルク支持者とリスト支持者による激しい論争が繰り広げられ、1837年には、その決着をつけるべく有名な「ピアノの決闘」が行われた。この決闘では、主催者ベルジョイオーゾ侯爵夫人によって「タールベルクは世界一のピアニスト、リストは唯一のピアニスト」というどっちつかずな判定が下され、2人のピアニストのライバル関係に終止符が打たれることとなった。

1855年、タールベルクは、南米へと渡り、ブラジルやハバナで演奏会を開いた。1856年からは米国に滞在し、その間、ヴァイオリニストのヴュータンとの共演も行っている。1858年には、ナポリ近郊のポジリポに邸宅を構え、数年間、音楽活動から身を引いたが、1862年には、パリやロンドンで再び舞台に立った。翌年には、ブラジルへの2度目演奏旅行を行うが、その後、音楽活動から完全に引退し、ポジリポでブドウ園を営みながら余生を過ごしている。

タールベルクは、低音域と高音域に伴奏や対旋律を配置しつつ、中音域に左右の手を組み合わせ用いて主旋律を奏でる「3本の手」と呼ばれる書法をトレードマークとしていた。その名の通り、あたかも3本の手で弾いているかのような演奏効果が得られるこの書法は、後のピアノ音楽に多大な影響を与えている。

作品は、大半がピアノ独奏曲であり、歌劇の主題に基づいた幻想曲がその多くを占めている。中でも、上述のピアノの決闘の際にも演奏された《ロッシーニの歌劇「モーゼ」による幻想曲 Op.33》や、声楽曲を編曲した教育的作品集《ピアノに応用された歌の技法 Op.70》が特筆に値する。ピアノ独奏曲以外には、ピアノ協奏曲(Op.5)や歌曲などを残している。歌劇も2作手掛けたが、どちらも成功しなかった:《フロリンダ Florinda》(1851年初演)、《クリスティーナ・ディ・スヴェツィア Cristina di Svezia》(1855年初演)。

作曲家名の別表記: Sigismund Thalberg
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