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William Vincent Wallace
(1812年3月11日 - 1865年10月12日)

ウィリアム・ヴィンセント・ウォレス(William Vincent Wallace, 1812-1865)は、アイルランド出身のピアニスト・ヴァイオリニスト・作曲家。ウォーターフォードで生まれた彼は、連隊で楽団の指揮者を務めていた父から様々な楽器を教わった。1825年に父が軍を除隊すると、一家はダブリンへと移り住んだ。そこでウィリアムは王立劇場の管弦楽団でヴァイオリニストを務め、常任の指揮者が不在の際には代わりに楽団を率いることもあったという。1830年には、サーリスの大聖堂のオルガニストに任命され、また、同地のウルスラ会修道院で音楽教師も務めた。そこで教え子のイザベラ・ケリー(Isabella Kelly)と恋に落ち翌年に結婚した。彼女の父親はウォレスがプロテスタントであることを理由に結婚を反対していたため、その時、彼はカトリックに改宗した。ミドルネームのヴィンセントは、その際に授かったものである。1831年には、ダブリンに戻り再び宮廷楽団の奏者を務めた。そこでパガニーニの演奏を聴いて強い感銘を受けたという。

1835年、ウォレスはヴィルトゥオーゾとしての成功を夢見て、壮大な旅へと出発した。まず、彼はオーストラリア、タスマニア島のホーバートを訪れた。翌年にはシドニーへと移り、ヴァイオリニストとピアニストの二足の草鞋で演奏活動を行い、「オーストラリアのパガニーニ」とも称されたそうである。彼がオーストラリアを離れたのは1838年のことで、その後、南太平洋へ捕鯨の旅に出た、インドで虎狩りをしたなどといった冒険譚も伝わっているが恐らく作り話で、実際にはチリのバルパライソへ向かったとされている。それから、サンティアゴ、ブエノスアイレス、リマ、ジャマイカ、キューバ、メキシコシティ等を訪れ、1841年には米国に至り、ニューオーリンズ(1841)、フィラデルフィア(1842)、ボストン(1843)、ニューヨーク(1844)を歴訪した。1844年には欧州に戻り、ドイツとオランダでの滞在を経て、翌年にはロンドンを訪れた。その年には、第一作目の歌劇《マリターナ Maritana》が初演され大成功を収めた。

1849年には再び南米を訪れるが、視力障害の治療が目的であったと考えられている。その翌年には、ニューヨークでピアニストのエレーヌ・ストーペル(Hélène Stoepel)と結婚した(重婚だったともいわれる)。1858-59年にかけてはドイツで過ごし、1860年には歌劇《ラーライン Lurline》が上演され大成功を収めた。晩年は病に蝕まれ、フランス、オート=ピレネー県、ヴィウゾ(Vieuzos)のシャトー・ド・アジェ(Château de Haget)で最期の時を過ごした。彼の亡骸は、ロンドンのケンサル・グリーン(Kensal Green)墓地に埋葬されている。

ウォレスは、大成功を収めた前述の《マリターナ》と《ラーライン》の2作に加え、《ハンガリーのマティルダ Matilda of Hungary》(1847)、《琥珀の魔女 The Amber Witch》(1861)、《愛の勝利 Love's Triumph》(1862)、《砂漠の花 The Desert Flower》(1864)といった歌劇も手掛けているが、それらは不成功に終わっている。また、ピアノ曲もサロン向けのものからヴィルトゥオーゾ向けのものまで多数残しており、それらは当時は高い人気を誇っていた。一方、ヴァイオリニストとしての活躍にもかかわらず、ヴァイオリンのための作品はほとんど残っていないようである。

作品番号タイトル
-歌劇の思い出
Souvenir de l'Opéra
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